姫路商工会議所の軌跡 ~平成初期(70周年史より)

姫路商工会議所の軌跡 ~平成初期(70周年史より)

創業の気概に燃えて 商業会議所発足

実業団体の胎動

明治22年、姫路市制が布かれ、山陽鉄道の開通、軍師団の設置、工場の進出の三つを軸に、姫路は都市の様相を整えはじめた。そして、これと歩調を合わせるように、明治の末期には、多くの商工団体が設立された。
当時、活躍した主な団体として、姫路商業会と姫路実業協会がある。
姫路商業会は、ある共進会に姫路の特産品、綿布、履物、菓子などを出品したが、陳列や装飾が幼稚であったことから反省の声があがり、市内の主立った業者があつまり、組織をつくり、生産品の改良、販路の拡張にのり出したのがはじまり。
また、明治39年には、姫路実業協会が創設、会員は40名と小団体であったが、入退会を厳格にしていたので、結束力があり、全員自家商業の改善に努めたので、世間の信用が厚かったという。
事業は、主に従業員教育に取り組み、夜学を開設したり、学用品の無償提供など、すぐれた業績を上げている。
このほか、姫路商工会、市内野里地域に姫路北部商工会がつくられ、会員相互の意思疎通、親睦、店員徒弟の教育などの事業を展開したが、団体間の連絡がなく、統一を欠き、不便が多かったところから、全市商工業者の公的機関として、商業会議所設立運動を提唱する先駆者もあったものの、機運は熟さず、徒らに歳月が流れた。

商業会議所設立認可

「姫路に会議所を設立しよう」との動きは大正8年3月、姫路市勧業委員会でもち上がり、市と勧業委員の同意に達した。先進都市における設立状況の調査研究にはじまり、設立に先立つ協議会を結成。
大正9年10月、勧業委員から会議所設立に必要な事項、創立費、徴収方法、経費予算を説明し、賛同を得た。時の杉山市長は、会議所設立の手続き、人選の全面委任を受け、「会議所設立発起実行委員」19名を指名。
委員長には神村信五郎、幹事に芥田九一郎、吉中猪之吉、石田龍哉、泉 平吉、池田弥七、山崎嘉吉、三宅貞次郎、茂理芳吉、香山伝治が選任され、設立準備にはいった。
大正10年2月、170名の発起人を連署した申請書を時の農商務省に提出。たび重なる認可促進の陳情をくりかえした結果、大正11年7月12日、積年の悲願であった設立の認可を得た。

初代会頭は神村信五郎

大正12年の春、姫山公園に多数の来賓を招待、はなやかに開所式を開催した。
神村会頭は感激の挨拶の中で「そもそも商工業は平時におきまして、優勝劣敗を決するところの経済戦であります。(略)即ち、国の富は算盤でありまして、算盤は戦争の武器であります。殊に、この時代に向いましては商工業を本位とし、専ら産業を発達せしめ、民力を函養し世界の戦争に勝たねばならぬ次第であります。商業会議所は、商工業の発達に資するところの羅針盤でありまして、即ち諸君が経済戦争場裡に立たれて、能く必勝の利を得らるることを講ずる所の中心機関であります。」と意気軒昂としてブチ上げている。

戦前の二大博覧会

第1次世界大戦で、わが国に初めて戦争景気が訪れ、海運業界などかつてない活況を呈したものの、やがて終息。その反動とも云える恐慌に襲われ、姫路の商工業界も暗雲がたれ込める。購買力は落ち、倒産も出る。この事態に直面した当所は、苦境脱却し、商工業界に生気を注入するため、大がかりな、「全国産業博覧会」を開催。大正15年春、牛尾梅吉会頭を先頭にして積極果敢に準備に取り組んだ。
会場は姫路城南練兵場。建物は本館、特別館など13館、総建坪3,700坪、全国産業博覧会と銘打って、事実上全国を網羅した精選品を展示したのだから、迫力充分であったろう。40日間にわたって、44万5000人が押しかけ、大成功をおさめたのである。
小都市の、しかもまだ駆け出しの会議所がこのような大規模な博覧会を開催したのは姫路が初めてとされ、今も高く評価される。また昭和11年、姫路一津山間の鉄道が開通し、姫路の商圏が拡大する事から、姫路市と当所の共同組織「姫津線全通記念事業協会」を設立、記念事業として「国防と資源大博覧会」を開催し、40日間にわたって白熱的な成功をおさめている。入場者427,844人。

姫路の銀行合併に物申す

本市最古の銀行は明治11年創設の第三十八国立銀行であるが、金融市場からの資金調達が活発になったのは、日清戦争後賠償景気によって、鉄道、水力発電、紡績などの工業が急速に伸びた頃からで、姫路商業銀行、萬里銀行、博融銀行が相ついで誕生した。とりわけ、三十八銀行は増資、合併をしながら拡大し、姫路市金庫、兵庫県金庫、日銀事務取扱をするなど、神戸市に3ケ所、飾磨その他に13ケ所に支店を設置して中心的存在であった。
ところが、大正末期に至り、政府は銀行の合併を強引にすすめ、僅かな年月に銀行数は半減。当市でも、姫路銀行が三十八銀行と合併、萬里銀行は五十六銀行(明石)と合併した。また姫路商業銀行は博融銀行を吸収合併して姫路銀行と改名した。
さらに、政府は一県一行主義を強力に推進し、三十八銀行、西宮銀行、灘商業銀行、神戸岡崎銀行、五十六銀行、姫路銀行、高砂銀行の7行に対して合同勧奨を出し、その結果大合同して神戸銀行が誕生した。旧姫路銀行頭取牛尾健治は、副頭取に就任。
姫路商工会議所は、合併反対の動きを容れて、これまでの銀行合併の動きは主に経済的理由によるが、今回は、政治的色彩の濃いものであり、「吾人の誠に遺憾とするところなり」と異議をとなえ、反対理由を5項目にわたって挙げたあと、「銀行合同を強行せらるる結果は資金の集中偏在を誘致し、従来の取引者は密接なる連携を失い、中小企業の金融に重大なる璋碍を惹起するおそれある」と断じ、性急な大合同によらず、金融業界の状勢に順応して、漸進的に対応するよう求めている。陳情先は大蔵大臣あて、会頭/今井茂次

活発な建議・陳情・要望

陳情、要望はきわめて活発におこなわれ、教育の分野から、企業立地促進、産業教育、殖産奨励、商品陳列館設置、租税減免、鉄道建設促進、電信事業の促進、港湾改修、国道工事継続、国費節減に至るまで実に広範に及んでいる。
これらの中から、実にユニークな要望を2件紹介しよう。

●日除天幕設置問題
兵庫県は警察署長名をもって、商店街の日除天幕(アーケード)が交通規則改正によって抵触することになったので、10月15日を期限に撤去すべし。との示達。当時、アーケードは二階町通、元塩町、東二階町、中二階町、西二階町、竪町、俵町、福中町、福中内新町、駅前町、直養町、光源寺前町、亀井町、西紺屋町、中呉服町、平野町、東魚町、大野町の17ヶ町に同じ設計による鉄骨の本格的な天幕が張られ、人気があったのである。
要望書には、商店街が共同天幕をつくったのは、市長や署長が強圧的にすすめた事もあって、かならずしも利害が一致しない者も従い、今日では夏の日除けのみでなく、四季を通じて顧客の利便に供し、街の界隈には不可欠な施設となっている。しかるに、「何の予告期間もなく、撤廃を命ぜられたるは霹靂(へきれき)の一声の感あり。若し万一これを撤廃せんとするか多年苦心奮闘の結果誘致せる顧客を失うのみならず、商品の損傷は実に莫大にして、商店街の盛衰消長に関する死活問題にして到底堪え得べからぬことに有之候」と訴え、兵庫県知事あてにその撤廃に反対の陳情を提出している。昭和9年9月、会頭/福島安次郎

●銀行土曜日半休撤廃運動
大蔵省令で昭和3年、銀行土曜半休実施に対し、本令撤回運動に呼応して、反対声明文を出している。これによれば、銀行が土曜日半休する理由は、日本銀行が休むため、連絡を保つ必要上追随しているのだから、日本銀行は土曜半休を、少なくとも午後3時まで延長せよ。銀行の土曜日営業時間短縮は、取引の円滑を妨げ、産業の発展を疎害するといった内容。今日とは隔世の観がある。昭和2年/会頭 今井茂次

金融恐慌と会議所

昭和初年の金融恐慌・慢性的不況は、関東大震災によって首都が壊滅的打撃を受けたことが原因であるが、当所の記録をみると、昭和2年4月、神戸鈴木商店の主銀行、六十五銀行の休業、その連鎖反応で殆んどが休業に追いこまれ、商工業者の不安は一挙に高まった。当所では、緊急役員会、臨時議員総会が開かれ、関係方面に対し、声明文をおくっている。「財界ノ混乱憂慮オクアタワザルモノアリ スミヤカニコレガ対策ヲ講ジ 人心ノ安定ヲ図ラレンコトヲノゾム 右議員総会の決議ヲ以テ上申ス 会頭 浜本八治郎」
又、市民に対する注意書を作成、配布しているが、これによると、銀行に預入れの金額は支払猶予令によらず、その金額だけは何時にでも引き出せます。貸出しについては、できるだけ応じるよう努力します。又預金者に警告として、銀行は多人数より預金を集め、商工業者へ資金を融通しているのだから、いかに確実な銀行でも、多人数が一時に預金を引き出されては、支払いに差し支えを来たすこともあります。この際、自重されて、必要以外の預金を引き出されぬ様に。即ちこれが預金者各位を保護する最善の道であります。と市長名、警察署長名、会頭名連署している。

戦雲急をつげ、統制経済へ 会議所は無力化。解散。

日鐵広畑製鐵所の立地

臨海部に近代的工場が立地したのは、明治41年の大日本セルロイド網干工場、大正元年、敷島紡績飾磨工場、昭和に入り、山陽製鋼、日本砂鉄飾磨工場があるが、昭和12年3月日本製鐵広畑製鐵所の立地決定により、重化学工業地帯の性格を決定づけることになった。広畑地区に建設工期3年をかけ、敷地面積100万坪、三本の溶鉱炉をもつ一貫製鉄所が建設されるとあって、大変な人気に沸いた。時あたかも、日中間の戦雲急を告げ、工事督励の声がかかり、用地買収、公有水面の埋立、高炉、コークス炉の基礎工事、本体建設すべて急ピッチですすみ、昭和14年10月15日、歓喜の渦に包まれる中、第一高炉に処女火を点し、創業の第一歩を踏み出した。
戦火が激しくなるにつれて、民間工場も軍需生産に切換えられ、戦時体制にはいった。軍需工場の労働力確保のため、軍需工業動員法の発動、国家総動員法の公布、国民徴用令によって、強制徴用が実施され24時間労働・昼夜3交替のフル操業が展開された。
太平洋戦争下では、工場技術者、労働者が召集をうけて出征し、労働力は日を追って不足、ついに学徒勤労令・女子挺身勤労令が出され、県下の中学・女学生が市内の軍需工場に大量動員されることになり、必死に兵器づくりに汗を流した。統制経済下においては会議所は無力化し、活動記録も殆んど残っていない。

商工経済会へ改編

戦時経済に即応した商工会議所機構への改革は、曲折を経て、商工経済会法が昭和18年に公布、全国170余の会議所は発展的に解消して、新しく各道府県単位の商工経済会の誕生をみることになった。このねらいは、業種別に生産、配給、消費を縦につらぬく産業統制機構を円滑に機能させるため、その連絡調整の地域的役割を担わせ国策協力機関として改編した訳である。 兵庫県では、神戸に本部をおき、姫路商工会議所は姫路支部に生れかわった。しかし、実際には、事業は殆どできず、本土空襲が激しくなり昭和20年7月3日、姫路市内は猛爆を受け、支部庁舎も焼失し、やがて敗戦と共に、その活動の方向を見失い、解散への道をたどったのである。



そして、敗戦から立ち上がる。 新たな旗印をかかげて

姫路商工会議所の再発足

敗戦にともなう戦時体制の終了とともに、昭和21年9月商工経済会法の廃止。かわって、経済復興の新使命を達成するため商工会議所の設立準備がはじまった。戦前のような、特別法による制度復活を望む声があったが、占領軍の指示もあって、英米式の会員の自由加入、脱退方式の任意形式の団体として、民法上の社団法人による設立となった。創立趣意書によると、かつては強制加人であったが、今回はあくまでも民主々義の本旨に則った任意であり、基礎が堅実。強制は形式は整っても、内容は欠点が多い。
「之れに反し、任意の組合の団結は実質的に各会員は責任を自覚し、所謂自らの会議所であり、民意結集の自由主義の上に立つ団体たることを誇りとするものであります」と胸をはっている。
昭和21年9月28日社団法人姫路商工会議所は設立総会を開催、定款、役員、事業計画、収支予算を決めた。会頭 齋木亀治郎(山陽色素社長)、副会頭 木田政吉(姫路合同貨物自動車社長)同 溝口半次郎が就任した。現在、当所の創立記念日はこの設立総会日を当てている。

本町68番地に会館建設

姫路大空襲で会館を焼失し、姫路信用組合の階上を借り受けて商工業界の復興に全力を注いできたが、事務所は手狭であり、加えて姫路経営者協会、姫路機械金属工業協同組合、姫路観光協会、姫路美術工芸協会、姫路源泉納税協会、姫路商店連盟などの諸団体をかかえ、職員も増員しなければならず、新たな会館の建設が迫られた。
そこで、資金、資材ともに窮迫した戦後の混乱期にもかかわらず、新会館の建設計画が練られ、昭和23年10月、議員総会で「新会館建築の件」を可決し実現に向けて動きはじめた。
当時の会議所用地は大阪逓信局の希望によって譲渡し、古二階町の元姫路郵便局跡地を代替地として取得したが、建設用地としては不適当であるため売却。本町68番地を大阪財務局より払下げを受けて、そこに建設することとした。面積約4,300平方米。
設計は安田敏政氏(西二階町)、建築工事は藤田組大阪支店が請負い、明和工務店が設備を担当した。木造二階造、建築総面積1,900平方米、建築費総額は1,671万円を要した。財源は手元資金76万円、市補助金80万円会員からの寄付金772万円。借入金659万円で、会館建設に執念をもやした執行部には、今もって頭が下がる。
新会館の竣工式は昭和25年5月24日に開催され、齋木会頭は式辞のおわりに「この新館成る日、今は失える往時の設備整い、美観と偉容を誇りし会館に思いを馳せ、往時を偲び、わが姫路商工会議所創立以来尽瘁 せられましたる先輩諸君のご功績を讃仰し乍、不敏、私共議員職員一同は微力を捧ぐるの光栄を喜びまして、先輩の遺業を傷けざらむことを厳粛にお誓い申し上げます」と-。

播磨地域工業振興促進協議会の設立

広畑製鐵所は閉鎖され、しかも賠償工場の指定を受けていた。他の軍需産業の中核である鉄鋼、造船、化学、電機などの生産施設、工場も休止または閉鎖され、しかも財閥系大企業や、国家資本を投入した巨大企業は解体が命じられた。広畑製鐵所には、1万2千300人の従業員がいたが、約3千人の動員者が引揚げ、食糧難や前途に不安を感じた従業員が相つぎ、半年間で3千500人に減少した。
賠償指定は好運にも解除され、地域ぐるみの再開運動は功を奏した。当所の記録によっても、当時この陳情要望に奔走した資料は多い。昭和25年3月、広畑は4年ぶりの再開にわき、富士製鐵の主力製鉄所として、合理化計画で飛躍的に生産量をのばし、大製鉄所の地歩を固めた。同年6月、朝鮮戦争がおき、予期せぬ特需景気が訪れたこともあって、相ついで休止工場も再開され、姫路の臨海部は阪神工業地帯につぐ、第二の工業地帯として一躍クローズ・アップされた。
昭和26年、当所の音頭によって、「播磨地域工業振興促進協議会」の設立をよびかけ発起人代表として、龍田会頭は工業開発の推進に対応して、産業人の総意を諸施策の上に反映せしめ、大いに産業振興をはかるべしとゲキをとばしている。こうした動きに呼応して、姫路市は、工場設置奨励条例を制定し、固定資産税の減免を盛りこんだ優遇策をもって優秀企業の誘致にのり出し、これの適用を受けて進出、又は大型設備投資をした企業は23社に及んだ。

姫路商店街の復活

戦争で中断していた自由な商業活動が、ヤミ市を舞台に再開され、日を追って町は活気をおび、生気をとり戻していった。
姫路市の戦災復興事業が本格的に開始された昭和23年、家と商品を焼失した商店主たちが結束して、当所商業部会の全市一丸となった商店街連盟結成の必要を説いた結果、13商店街が参加を表明。同年6月結成式を挙行した。敗戦の虚脱した国内で、全市的な商店街連盟をつくり上げ、商業復興にのり出した都市は他に例がない。
こうした動きに刺激され、市内卸売業者間でも連合会の動きが活発化。かつては大阪に次ぐ卸売業の盛んな土地柄だったが、統制経済、企業統合で店を閉めたところが多く、ほぼ壊滅状態であったが、食糧品、衣料品を除いた卸売業者が続々と再開、卸問屋連合会が結成された。
発足したばかりの姫路商店街連合会では、「姫路誓文払」を復活し、加盟店800店が参加する大がかりなイベントを打ったところ戦後の欲求不満でイライラしていた市民に大いに受け、大変なにぎわいであった。ついで年末年始の大売出しを計画。福引抽選特等5万円の賞金、買物客全員にコロンビア演芸隊の公演招待、これまた市民の大喝采を博した。こうして姫路市内の主要商店街は戦災復興事業と並行して力強く復活、「戦後の奇蹟」といわれた。こうした中から、中二階町、洋品雑貨店米田マケン堂が百貨店経営を計画。数次の増築を経て、播州路に初の大型百貨店「やまとやしき」か誕生。また、昭和27年には、山陽電鉄、神姫バスが共同出資し、ターミナル・デパート「山陽百貨店」が立地、駅前の様相が一変した。

未完の大器・播磨工業地帯

播磨工業地帯は「未完の大器」といわれた昭和32年10月、政府は工鉱業地帯整備協議会で、四大工業地帯に次ぐ投資効果のすぐれた地域として、播磨を指定した。姫路を中核とする7市5町、面積750平方キロ、入口80万のエリアが初めて公認されたのである。
この地帯は戦前、戦中に立地した企業が一斉に拡張計画をもち、即、投資効果が期待できる利点があった。兵庫県は「これほど急ペースで伸びる地域は播磨をおいてない。国と県が立地条件整備さえすすめれば、工業化は飛躍的にすすむ」と自信を示し、昭和35年から本格的な学術調査を実施した。この報告書によれば、工業集積は向う10年間にほぼ形を整え、生産も本格化するので、阪神の46パーセントに対し、播磨のシェア42パーセントと急接近、昭和50年は、播磨はフル生産体制に入り、国内の景気がこのまま持続するなど理想的な開発を続けるならば、阪神34パーセントに対し、播磨地区は全県の49パーセント、2兆3,000億の工業生産をあげることになり、本県の主導性をもつに至るであろうと、大胆な推論をのべ、経済界に大きなインパクトを与えた。
しかし、高度経済成長は産業公害問題、資源エネルギー問題、貿易摩擦などの噴出によって、きびしい時代を迎えることになる。



高度経済成長 光と影。昭和30〜40年代

活発に展開、広域経済交流

従来、点と線で結ばれていた工業地帯は、広い面と太い線によって結ばれる必要に迫られ、広域経済圏の構想が打ち出され、大阪を中心にした近畿経済圏、岡山広島などとの瀬戸内経済圏の連携など、両者との活発な意見交換、交流が行なわれるようになった。

●関経連首脳との懇談
昭和37年、関経連首脳を招いて初の懇談を開いた記録によると出席者は阿部孝次郎会長(東洋紡会長)、工藤友恵副会長(大阪建物社長)、猪崎久太郎理事(安宅産業社長)、稲畑太郎理事(稲畑産業社長)、小林米三理事(阪急電鉄社長)、高畑誠一理事(日商会長)など6名。当所からは龍田会頭、黒田顧問(富士鐵広畑所長)、齋木顧問ら12名。播磨臨海部の工業開発について説明のあと、主に道路整備に議論が集中し、「播磨の発展は道路問題を解決しない限り展望はない。姫路-大阪は100キロ足らずなのに、トラックで4時間もかかる。どうしても高速道路が必要である」「この際、名神高速の播磨延長を実現したいが、神戸通過は大変なので、裏六甲ルートの実現をのぞむ」との地元主張に対し、阿部会長らは「神戸通過で、神戸に気がねはいらん。道路新設については政治力を発揮して、道路公団の設立を考えてはどうか。全面的に協力したい」などと相当つっこんだ意見を交換している。

●神戸経済同友会との懇談
神戸経済同友会の代表幹事や播州特別部会長らによる懇談会では播磨空港の有力候補地として、加西市鶉野をあげ、現地視察を行ない、運輸省航空局にも出かけて、可能性を打診するなど、先見性のある動きをしている。

●播磨経済会議
龍田会頭のよびかけで、播磨地域における経済団体の最高会議と位置づけ、商工会議所、商工会、青年会議所、経済同友会など47団体が参加して、播磨地域における地域開発問題を討議し、関係要路に対して促進方を要望するなど毎年開催して気勢をあげた。岡山・播磨経済同友会の合同懇談会、鳥取姫路経済交流懇談会、神戸・播磨経済開発懇談会と銘打った会合が積極的に開催され、広域に交流しようとの気運が盛んであった。

鉄工団地・木工団地・印刷団地の誕生

昭和36年、当所中小企業委員会は工場集団化促進法や先進団地視察など調査研究に取り組み、市内の機械金属工業者や家具・木工関係業者で急速に関心が高まり、具体的な促進を望む声が強くなったので、組合設立準備や集団化計画書の作成など積極的に関わる事とし会議所内に事務局を設置し、専任局員を配置した。

●姫路鉄工団地
昭和37年5月、43企業で協同組合を結成。発足したばかりの中小企業高度化資金助成法の適用を受け、兵庫県下のトップを切って集団化に踏み切った。候補地選定の結果、御着地区に決定し、同39年18.8万平方米の団地造成、昭和40年には共同倉庫、住宅、給食センターが完成、組合員の工場建設もすすみ、早いところはこの年操業を開始。創立10周年を迎えた昭和47年には32企業、従業員3,700人、年生産出荷額108億円にのぼる飛躍をとげた。

●姫路木工団地
昭和37年6月協同組合姫路木工団地の創立総会が開かれ、同業者の共同化・高度化をすすめることになった。同39年通産省指定工場団地の認可、用地は別所地区に7万平方米を取得、造成工事に続いて、共同施設建設にかかり昭和40年3月、木工団地にふさわしい新町名「家具町」と名付けた。組合員の業種は和洋家具の製造11社、別注木製品製造4社、家具付属品加工2社、その他3社で、総従業員900人、組合事業の共同購入、共同受注、共同販売をしてコストダウンに成功した。

●姫路印刷団地
昭和38年、協同組合姫路印刷工業センターが設立、同40年通産省指定。用地は山陽線曽根駅西1.5キロの線路沿いに3.8万平方米を取得、同43年5月に建物、機械設備完了。操業を開始した。

●姫路木材倉庫株式会社
姫路木材業界は国および兵庫県に働きかけ網干に新たな「木材専用港」の建設を企図、当所で促進協議会を結成。副会頭前田誠一らを中心に精力的に取り組んだ。昭和40年、本材港湾の完成、水面貯木場をもつ52万平方米の外材輸入特定港指定の団地が造成され、姫路木材倉庫は植物防疫業務、荷役業務、貯木業務等を担い、輸入材のアメリカ材、南洋材、北洋材は原木市場が開かれるようになった。

労働力不足時代-求人作戦

姫路産業界は高度成長一直線の当然の結果として、労働力の需給バランスが崩れ、労働力不足に見舞われた。
龍田会頭みずから雇用対策協議会会長に就任、大々的な求人キャンペーンにのり出した。市内の中学卒就職希望者2,571人。一方、求人総数は7,520人、差引4,949人の不足であり、西日本の職安に「求人キャラバン」を派遣し、姫路の都市PR、求人会社の説明に汗を流した。しかし、阪神、中京地方の強カライバルと競うのは並大抵のことではなく、苦境に立たされたが、その年度は市内各中学から1,808人、郡部より858人、県外から23本の就職専用列車と船便で到着した県外就職者535人、計3,201人が就職したが、この年をピークにして、若年労働力は年々不足した。一方、炭鉱離職者の雇用は増加しはじめ、当市だけでも61企業、2,000人を採用した。又、定着促進のため、人気テレビ番組の公開録画、大型ヘリコプターの試乗会豪華福引のイベントなど、派手な行事をくりひろげた。しかし、中学卒就職者は減り続け昭和48年には僅か160人に減少し、主力は高校卒となった。

企業蹉跌、連鎖防止に万全の体制

昭和40年3月6日山陽特殊製鋼が地裁に会社更生法の適用を申請とのニュースが全国規模で流れた。富士鐵広畑(現新日鐵)に次ぐ大企業の倒産。社員3,500人、負債総額479億9,200万円、戦後最大の倒産と騒がれ、寝耳に水の地元経済界は一大衝撃を受け、関連中小企業業者の連鎖倒産が心配されるところから、当所は緊急常議員会を招集、その対策を協議した。龍田会頭は上京中に情報が入るや、煥発を入れず通産省、日銀・大蔵省、日本商工会議所地元選出国会議員に対し、連鎖倒産防止に支援方を要請、東京からの情報と、対策が指示されるなど、その迅速適確な動きが注目された。
日銀の動きもすばやかった。神戸支店長は「山陽鋼は会社更生法の申請はしていても、富士鐵も援助を惜しまぬ意向だし、操業も続けるのだから、金融機関も事情を理解して、最大協力してほしい」と要望。山陽鋼の問題から生じる資金不足所用資金はすべて日銀が面倒を見るし、援助は惜しまないと言い切ったし、各金融機関は連絡協調をもって処置がおくれたり、誤りのないようにと、細心の注意を促がすなど、異例の要請であった。
当所内に「金融相談室」を設置、市内の中小関連企業の相談を開始。この甲斐あって、1件の連鎖倒産も起きず、阪神間の企業から「商工会議所のおかげで資金ぐりの心配もない」と感謝が多く寄せられた。日商からは龍田会頭に対し商工会議所の対応を評価し、感謝状が贈られた。尚、同社の更生計画は順調にすすみ、株式の再上場も果たして見事によみがえった。

姫路大博覧会の開催

昭和41年4月、戦後はじめて大規模な「姫路大博覧会」が開催された。
この趣旨は、昭和21年新姫路市誕生から20年、その間の市勢伸張ぶりを内外に紹介することで、将来の発展を期そうとの意気込み。手柄山中央公園、名古山霊苑、大手前公園の三会場に20館のほかに、修復成った姫路城をはじめ、手柄山モノレール、名古山の施設そのものも展示品との考えで、いわば戦後20年市政を担当した石見市長の「都市づくり」集大成であった。
40年不況の沈滞ムードを一掃させるには格好の事業であり、昭和45年の「大阪万国博」への道を姫路で切り拓こうと、官民あわせた大博覧会協会が発足し、龍田会頭は副会長に、議員の多くが参与・運営委員に就任し協力した。
会期は64日間、約150万人の観客を動員することに成功。城下町姫路が、播磨の中核都市として飛躍的な発展をとげたことを天下に紹介できた成果は大きかった。
しかし、総力をあげた量的拡大の誇示は、やがて質的変化を求める世論のうねりとなり、翌年の選挙で劇的な終焉を迎えることになる。

商工会議所会館-焼失

昭和45年4月8日午前7時40分ごろ、当所1階東側第2会議室付近から出火。姫路消防署、飾磨消防署などから消防車31台が出動して消火に当ったものの、建物が木造の上、構造が旧式のため火勢は一気にひろがり、2階の事務所は殆んど書類を持ち出すことができず、同8時50分ようやく鎮火した。
この火事で木造モルタルニ階建、延べ2,045平方米を全焼した。
鎮火後、直ちに緊急常議員会を開催、対策を協議し、その結果、まず会議所機能の停止を防ぐため、一時事務局を市公会堂の三階に移設し、残存施設を修復して業務を再開することにし、同月11月移転、会員をはじめ利用者の便を図った。
同時に、現地再建を進める交渉に入り、文化庁は姫路城特別史跡地内における現状変更は認めないの一点張りで難航、焼跡の片付け修復工事さえやっと許可が出たのは6月11日、ロータリクラブなど団体を入居させる仮設建物の建築許可は10月14日になるなど、両者の見解は歩み寄らず、やがて文化庁を相手どって行政訴訟を決断するに至るのである。
昭和48年、東京地裁に訴訟手続き開始、同50年11月までに10回にわたる口頭弁論を展開。昭和51年12月、東京地裁が職権和解案を提示。臨時議員総会を開催して、この和解案を受諾することを決した。和解内容は当所用地を公園用地として市に売却し、下寺町日ノ本学園用地を市長が斡旋するという内容で、原告側への損害補償的要素が加味されていることもあり、円満解決した。

開発のひずみ・公害問題噴出

工場廃液が原因とされる水俣病の発生。製紙会社の流した廃液でヘドロの海と化した田子の浦、大気汚染では光化学スモッグ四日市ゼンソクと、高度成長は産業公害という形で噴き出した。
臨海部の大手事業場は、公害規制の強化に対応し、当所に産業公害防止研究会を設け、未然防止の方途について方策研究を開始した。
昭和41年、出光興産の進出に当り、石油基地化に反対する一部漁民が起工式場になだれ込む事件が発生し、立地の中断。関西電力第二火力発電所増設には賛否に揺れるなど、企業側にとってきびしい時代を迎えた。
臨海部企業を中心に、主要企業30社は兵庫県、姫路市との間に、法規制値、条例値を上乗せ基準によって「公害防止協定」を締結した。当所は企業側に立って、行政側の性急なやり方に対抗しつつ、協調しながら対策の効果があがるよう腐心した。企業は低硫黄燃料の確保、多額投資の脱硫装置の設置で苦境に立たされたが、よく克服し、やがて姫路の深刻な環境問題は峠をこえた。しかし、特産業の皮革廃水、下水道不備による家庭排水、のり網漁業と航路調整といった難解な問題は積み残され、瀬戸内海の赤潮の発生などはいまも根治されていない。
当所は、浜手グリーンベルト造成費の一部は公害事業所の負担によるとの建前から、その分担をめぐって調整役を演じたり、公害防止協定の立会人など「寛容と忍耐」の役割りを担ってきた。

山陽新幹線開通・高速自動車道オープン

●山陽新幹線
期成同盟会を結成し、大がかりな陳情をくり返してきた山陽新幹線は、昭和43年起工式、同47年3月15日、新大阪-岡山間が開通した。開通を翌年にひかえた同46年6月、姫路駅停車の「ひかり号」の本数に関心が高まり、竹田会頭ら代表は運輸省に姫路駅停車を陳情し、大方の願いは達成された。同50年、博多まで全通、姫路駅には"こだま号"全列車と、"ひかり号"の三分の二が停車、姫路-東京間を4時間で結んだ。

●国道バイパス
国道2号線の混雑は年々はげしさを増し、市内は慢性的渋滞箇所となり「姫路は西日本道路ネック・ワースト・ワン」と悪評されるまでになり、昭和45年2月、市内の国道を一方通行に踏み切り、西行きを十二所線に迂回させることにした。
この屈辱的な国道一方通行の現実に反発して、姫路国道バイパスの早期建設の先頭に立ち、要望活動を展開した結果、高砂市魚橋-姫路市青山間18.4キロは昭和48年7月暫定供用開始。50年12月全線オープンした。

●中国縦貫自動車道
この高速道路は本格的ハイウェーで、昭和50年10月、大阪吹田一岡山落合間が開通し福崎インターから、ノンストップで東京まで走ることができることとなった。

商店街の近代化と大型店出店

山陽新幹線の開通を機に、市内のデパート各商店街は一斉に改装工事、増改築工事に踏み切り、都市型に脱皮した。

●ヤマトヤシキ
総工費10億をかけ、売場の拡張と店内改装により都市型デパートに脱皮。社名も片仮名に変え、社章、制服、バラを店花に決めるなどCI戦略を推進した。売場面積、14,086平方米。

●駅デパート
2階3階を増築して売場面積を拡張し、全面改装。又、地下街増改築は従来の東側に「東地下名店街」を増築、駅より大手前通り、御幸通り、小溝筋が地下道で結ばれた。

●山陽百貨店
ターミナル・デパートの特色を生かし、売場面積も15,529平方米に増築。アップ・ダウンエスカレータの設置、自電装置による照度、空調を完備し、トラベルサロンなど多様な顧客サービスに応えるよう体制を布いた。

●ジャスコ姫路店
店舗増築により、11,130平方米となり西館と東館を六階、屋上で連結するレインボーブリッジ方式。商店構成は衣料のほか総合商店を揃え、スーパーから百貨店に脱皮をした。

●商店街の近代化
老舗の並ぶ各商店街も、真剣に対応策を練り、各商店街が結束して、店舗の改装、アーケード、カラー舗装など近代化を推進した。二階町商店街はレンガ舗装工事に着手、アーケード照明を一新。御幸通商店街は伝統のアーケードを一新、カラー舗装も生まれかわった。市西部の船場地区は市街地改造ビルの建設が昭和49年に完成、150店が商店街に加盟。

●大手大型店の進出
昭和49年、市内綿町の姫路センタービルに核店舗としてダイエーが進出を表明、既存の商店街関係者は、騒然となり、反対要望も出て、当所に設置の「商業活動調整協議会」略して商調協は13回にわたる審議の結果、大巾な面積カットを内容とする漸増方式をもって解決した。ついで昭和51年、ニチイ、ジャスコ出店表明。ニチイは姫路市が推進している北部副都心計画(東洋紡績跡地)の核店舗として、一方ジャスコは岩端町、米谷紙管工場跡地への出店。計画面積は合わせると36,000平方米と大規模出店であるところから、商店街が反発、市民会館で「総決起大会」、市役所までデモ行進という異例の事態となった。当然、商調協も空転、会合は年間41回に及んだ。
姫路北部副都心計画はニチイ立地のあと、モール街、ダイエー出店と続き、今日の盛況を見るまでには、長い年月が流れた。

流通センター計画の挫折

悔いの残る事業として、流通センター計画の空中分解がある。昭和40年代にはいり、流通の近代化、大型化に対応する流通機構の整備が叫ばれ、当所でも卸売業部会や卸売対策委員会が中心になり、すでに流通団地を建設していた先進都市への視察研修を行なう一方、県・市に対してその促進法を要望してきた。
昭和45年、姫路市は流通業務都市の指定を受け、流通業務の合理化に着手。当所は市と共同で姫路地区の卸売業者を対象に大がかりな基本調査を実施し、147社の参加希望者を対象に「姫路総合卸売商業団地促進協議会」を結成した。市は庁内にプロジェクト・チームを組み、昭和47年市東部、花田町・御国野地区を中心に、約45ヘクタールの計画を公表。トラック・ターミナル、倉庫、コンテナ・デポ、公益施設を併設する総合卸団地計画であり、期待されたが、用地取得の段階に入って、折柄、列島改造ブームで地価が急騰し、オイル・ショックと重なったため、計画を大巾に、7ヘクタール縮小。場所も加納原田地区として、再協議に入ったが、総会では、規模縮小でメリットがない。分譲予定価額が高い。周辺道路整備計画が乏しいなどを理由に不参加の空気が強かった。
こうして卸団地計画は暗礁に乗りあげ、急速に冷え切り、市は市費14億円を用地取得に投じており、何んとも残念な挫折であった。流通近代化は今日的課題であり、姫路は未だその展望をもつに至っていない。

オイル・ショック

昭和48年10月、第4次中東戦争が勃発した。産油国は原油公示価格を上げ、同時に原油生産を削減、非友好国への禁輸を決定した。列島改造ブームで進行中のインフレは一挙に吹き上げた。産業構造を根底からゆさぶる大事件であり、原油を武器にして締め上げる外圧に脅威を感じた。「今に、何もかも値上りする」と誰もが思いはじめると、列島に仮需要がふくれあがり、ガソリン、灯油、小麦粉、石ケン、トイレット・ペーパーまで、店頭から消えるという騒動に発展し、通産省は商工会議所に「石油製品あっせん所」を設置するよう求めてきた。しかし実際には、斡旋を希望した者は殆んどなくパニックには至らなかった。
むしろ、次いで政府がとった「総需要抑制策」の強烈な金融財政からの締めつけによって、一転して個人消費は冷えこみ、不況に突入し、とりわけ重厚長大型産業は、同時進行中の円高相場と相まって出口のない不況に直面することになった。
姫路経済の環境もこれを境にしてガラリと変わった。新日鐵の生産集約化に伴なう、広畑製鐵所の厚板ミル・コークス炉休止など、市や会議所首脳は本社に出向いて再考方を要望する一幕もあった。
昭和46年から、人口増加は鈍化の一途。人口動態の社会増減で、年間の転出者数が、転入者数を上廻わり、社会減を連続記録し、地域経済にかげりを投げかけることとなった。



姫路経済活性化の拠点づくり

新会館・悲願のオープン

昭和56年8月22日、「姫路商工会議所会館」は華々しくオープンした。竹田会頭をはじめ、議員、職員ら関係者のよろこびはひとしおであった。
とりわけ、竹田会頭は会頭職を引き受けてから僅か5ケ月目に、会館焼失に遭遇し、その再建問題という重い荷物を背負い、文化庁など行政との折衝事、あげくに行政訴訟で争うという、心の晴れぬ歳月であったに違いない。
昭和52年7月、一切の係争事件が解決し和解条件によって本町の用地を姫路市に譲渡し、市内下寺町の旧日ノ本学園跡地に移転を決断すると同時に、商工会議所の全組織あげて、新会館建設計画の推進に取り組んだ。
竹田会頭は統括本部長に就任。計画、建築、財務本部の長に各副会頭を配し、重要条件を一つ一つ解決していった。特に、設計・施工業者の選定、募金計画については、入念な合意に時間をかけ、大口募金の依頼には竹田会頭みずから陣頭に立ち、募金行脚に歩いて協力をお願いした。新日鐵をはじめ、山特鋼、大和工業、関西電力、出光興産、大阪ガスなどの基幹産業や、市内有力企業に対しても、誠心誠意協力を依頼し、結果として、募金件数約3,000件、募金総額約16億円余に及び、その目標を達成した。設計、創設計事務所、施工、大成建設大阪支店。
昭和62年11月、竹田会頭は齋木新会頭にバトン・タッチの際「会館焼失から、新会館建設まで思いもよらぬ長い歳月がかかってしまった。しかし、多くの皆さんのおかげで立派な会館を建てることができた。この上は、会館にふさわしい中身をどう盛りつけるかだ。あとは若い諸君に任せた。しっかり頑張ってほしい」と、6期18年にわたる会頭職を辞された。

「姫路商工会議所会館」竣工
●新会館の概要
敷地面積 7,255平方米(約2,200坪)
建築面積 1,907平方米(約 578坪)
延床面積 8,700平方米(約2,636坪)
構造大要 地下1階、地上7階、塔屋1階、鉄骨・鉄筋コンクリート造、軒高、33米
総事業費 約30億円
設計・監理 創 設計事務所
施工 大成建設株式会社
工期
 起工 昭和55年4月1日
 竣工 昭和56年7月30日

姫路獨協大学の開学

姫路に総合大学が欲しい。かつては、姫路師範学校、旧制姫路高校があり、幾多の英才を輩出しながら、戦後の学制改革で総廃合の憂き目にあい、以来、総合大学誘致は市民の悲願であった。
国公立の総合大学誘致は一県一大学の厚い壁に阻まれ、ならば地方自治体が関与した私立大学をつくろうと、「公私協力方式」と呼ばれる「姫路獨協大学」の認可と開学に向けて、官民あげて取り組んだ。当所内に大学設置推進特別委員会を設け、主に誘致に向け、募金運動の先頭に立った。
昭和59年暮れ、当所ホールで行なわれた獨協学園と姫路市との大学設置協定の調印式をスタートに、文部省への認可申請、学舎建設と好調にすすみ、外国語学部、法学部、経済情報学部の三学部、学生総数4,000人規模の新設大学が昭和62年春に開学した。
募金は企業のほか、一般市民からも続々と寄せられ、約12,000件。募金総額は7億円をこえ、成功をおさめた。
昭和62年4月開学。平成3年春、第1回の卒業生をおくり出した。

姫路商業近代化地域計画事業

昭和59年、中小企業庁・日本商工会議所の指導のもと、姫路市と共同して進めた商業近代化地域計画は、初めての大がかりな基本調査や、計画実施の足がかりとなる「商業近代化促進協議会」の組織など、時間をかけて取り組んできた。
調査結果によると、姫路商業を支える圏域総人口の伸びが、類似都市平均を下まわり、買物行動が、従来の歩行買物を主体とした線(商店街)志向から、マイカー・ワンストップ・ショッピングの点(大型店)志向へと変化していること。姫路圏域の消費者層は「ファッション志向」より「堅実志向」。買物滞留時間が短かく、商業施設のソフト面での評価がきびしいなど課題がうきぼりになり、また人口当りの店舗密度や、中心商店街の吸引力にも問題の多いことが指摘された。
こうした事を受けて、都心は高次商業機能の整備が必要なこと。広域的に効果を発揮するマグネット機能の整備が望まれること。道路交通網のアクセス条件と駐車場整備。文化・情報等の新しい環境空間の創出。活気と魅力を演出するための季節的なイベントの開催。周辺部小売商業は、地域住民の生活便を確保するコミュニティ機能と、中心商業地と補完的分担が必要、といった検討課題をあげ、促進協議会で取り上げてきた。
この10年間に、当時指摘した課題は一つ一つ現実の計画となり、あるいは事業として推進されていることは評価されよう。
尚、昭和60年、姫路市商店街連合会に、新しく青年部が誕生。傘下13商店街の若手経営者ら180名が参加。新鮮な感覚と、旺盛な行動力を、街の活性化に役立てようと当所で旗上げした。

不況城下町法の適用

昭和61年は、前年からの円高誘導が輸出型産業を直撃することになり、文字通り「円高に明け、円高に暮れた一年」となった。
相生の造船、臨海部の鉄鋼と大巾な合理化必至といわれる中で、石川島播磨の造船部門の全面休止、新日鐵の高炉休止を含む合理化計画が公表され、相生では2,400人の離職者が出、臨海部でも余剰人員の雇用対策が緊急問題になって当地域はかつてない重大問題に直面した。
昭和62年、正副会頭は姫路市長や関係団体とはかり、新日鐵本社、政府、国会など要路への陳情をくりかえし、地域への影響緩和のため、公共投資、特定不況地域指定など要望するとともに、鉄鋼等不況対策特別委員会を設置して、市ベースで経済活性化対策協議会を設けること。産業開発、雇用開発の両面から緊急策を立案するよう求めた。
新日鐵では、複合経営を推進するため、新素材事業(ファインセラミックス、磁性材料、新金属(形状記憶合金、アモルファスなど)化学複合材料(断熱繊維、炭素繊維など)電子・エネルギー(シリコンウェハーなど)ライフサービス(レジャー、スポーツ、教育)など展開しており、広畑製鐵所でも、高純度水素製造、溶射球状粒子の製造、触媒製造といったハイテク事業や、焼却炉、ふとんの丸洗い事業、人材活用、能力開発センター、情報通信、養魚、マッシュルーム栽培、植物バイオと多角面の展開がはじめられた。
しかし、大手企業は不採算部門の休廃止や余剰人員の整理が進行中に、円高に伴なうメリットか゛出はじめ、1年もたたないうちに、離職者の暗い話題は霧散し、操業度はあがって余剰人員どころか、人手不足に走り出すところさえ出る変わりようとなった。

明日をになう研究集団異業種交流グループ

中小企業振興策の手法として、従来は協同組合などの組織化をすすめたり、積極的な系列化によるなどのパターンが多かったが、昭和50年代に入ると、昭和新世代の若手経営者、後継者の間から、異業種間の交流を通じて、ホンネで経営情報や、技術・商品開発について学び合いたい、とのニーズが高まり、当所は積極的に対応、グループ結成までの事務局を担当したり、業務の受託や、グループ相互間の連絡調整につとめるなど異業種交流の育成をはかった。
その主なものをあげると、
●姫路技術開発研究会(姫路フロンティアグループ・略称HFG)
金属加工、電気、建築、ソフト開発、設計、鍍金、商社の若手経営者13社。メンバーの共同出資会社ガウスを設立、新製品開発を手がけるなど意欲的。昭和54年発足。

●一八会
当所の呼びかけによって参加した、若手経営者集団。はじめは行政の奨励策にのった程度の活動から、メンバー相互の企業診断など本音で語り合える同志に成長。40社。昭和55年発足。

●播磨食品異業種協議会(愛称二八会)
お互い食品製造業者であるが、それぞれ品目は和菓子、麺、生パン、清涼飲料、水産練製品、清酒など異なる。海外情報、業界情報、見学会、研修会を通じて結束が固まり、恒例の「はりまグルメ共和国」イベントを仕掛けて市民に大好評。17社。昭和52年発足。

●姫路生産技術交流会
生産管理者の異業種交流グループである。経営者ではなく、実務担当者同士の交流グループというのがユニーク。テーマは一貫して「生産技術」一本やり。メンバー会社の相互見学と、社外コンサルタントとしてアドバイスという真剣さ。地道な成果を上げている。19社、昭和59年発足。

●姫路流通問題研究会(略称りゅうけん)
小売業の異業種交流グループ。地域・業態の枠を越えた流通業の若手経営者ばかり。個店の販促手法から、流通の技術革新問題まで巾広いテーマを設定して研修を継続しており、異業種間での新たなビジネス・チャンスの芽も出ている。18社、昭和59年発足。

●広畑・二水会
地域商業活性化研究グループ。広畑地域の商業振興は、若手の商業者みずから率先して取り組まねば、との熱意が結成の動機。街づくりのあり方に関心が強く、地域イベントに積極的に参加。12社、昭和51年発足。

●網干・潮音会
地域活性化グループ。異業種交流のワクを越えて、網干地域の活性化に情熱をぶつける経営者。会社員、団体職員、デザイナーと多彩な顔ぶれ。史跡、伝承文化など「網干研究」に始まり地域イベントの仕掛人として汗を流す。39人。昭和57年発足。

友好都市、太原市(中国)との経済交流

昭和62年5月20日、姫路市は中国・太原市(山西省)と友好都市提携に調印した。調印式には、太原市人民政府友好代表団が来姫した。その答礼として10月、市長を団長とする姫路市友好親善訪問使節団30名が訪中。当所から、早原副会頭が副団長で参画。交流行事として、北京では中日友好協会、孫平化氏と会見。太原市長表敬につづいて、桜の記念植樹、交流項目議定書調印。姫路市文化経済展示会開催。
太原市は山西省の省都。歴史も古く、人口約240万人、内陸都市。特産は中国最大の石炭産出拠点として知られる。とくに経済交流に意欲的で、産業近代化へ熱い期侍が感じられた。
さっそく、シロトピア博の出展として、山西省博物館の文物展覧、太原雑技団の公演がきまり、また、天台宗ゆかりの五台山をはじめ「生きた博物館」といわれる名勝史跡が多いところから、新たな観光開発などに期侍がかかる。
経済交流については、各年毎、相互に視察団を派遣することで合意。又、太原市より、語学研修生を毎年受入れ、姫路猫協大学外国語学部で研修のほか、技術研修生も受け入れている。
また、最近では第一燃料工業との合弁企業がコークス製造を開始したはか、市内の皮革会社が技術研修生を受入れるなど、着実に提携の実を挙げている。

姫路百祭シロトピアの開催

姫路市制100周年を記念し、「姫路百祭シロトピア」が地方博のスタイルで、平成元年3月18日開幕した。会期79日間。タイトルを「百祭」と名づけたとおり、数多くのイベントを盛り込み、会期からはみ出して、玉三郎ショウ、お城まつり、観月会、アデレード・ウィーク、年末のシロトピア・フィナーレと、年内いっぱいまで繰りひろげた。
開幕式では、姫路百周年行事実行委員会々長をつとめた齋木会頭は「市民ぐるみでつくり上げたこの記念すべき行事に、よろこびの総参加を」と呼びかけ華やかにオープン。
開門を待つ入場客はドット押し寄せて長蛇の列。開門と同時にハトと風船が大空に舞い開幕を祝った。博覧会期中には、シロトピア館など6つのパビリオン、美術館、歴史博物館での特別展、江戸時代再現の姫路城下町での大道芸といったパフォーマンスが連日くりひろげられ、俄然、姫路の地方博が全国的に注目をあびた。とりわけ、圧巻は五月連休に仕掛けたスーパースター「ケンゾーIN HIMEJI」。姫路城三の丸広場に特設ステージを設け、世界に向けた高田賢三氏のファッションを発信し強烈なインパクトを与えた。
更にもう一つ。祭りの本場、浜手をはじめ、姫路中の豪華屋台の総出演という「ザ・姫路のまつり」は空前の人出を記録し、終日播州の祭り気分を満喫した。
この年、百周年を迎えた都市は全国で38都市。それぞれ趣向をこらした記念行事が実施されたが、当市の市民参加型の大がかりなイベントを開催して成功させ、高い評価を得たのは少ない。当所は企画段階からスタッフとして参画、実施段階では議員の実行委員に就任のほか、出展企業、協賛企業のよびかけ、前売券の大量引受け、担当職員の出向、キャンペーンの協力と、心を一つにして取り組み大きな成功をおさめた。入場者数は予想を上回り、158万2,157人。



姫路新時代へ、大いなる序章

科学技術者を大切にする街

昭和57年、西播磨地域にテクノポリスの青写真づくりがはじまった。テクノポリスとは、先端技術集積都市、つまり産業と学術と居住区を有機的に結合させた21世紀タイプの新都市をさす。
しかし、そもそもこのような都市が、ある年忽然と人里はなれた山の中に出現する訳もなく、SFまがいの未来都市でもない。姫路市は、この計画の「母都市」と位置づけられ、母なる機能を担う以上、その責任は重大である。すでに、この地域には科学技術基盤として、姫路工業大学、皮革、金属、繊維など公立指導所、民間では大型金属加工、組立技術、鉄鋼製造技術、電子部品加工技術、メカトロニクス機器関連技術、ニューセラミック生産技術、高分子素材展開技術、バイオテクノロジー技術、情報処理技術など相当の分野において高い水準にある。
一方、こうした研究機関に従事する科学技術者の数は有に1万人を数えると推定されるが、その交流の場も乏しく、現実には、開かれた雰囲気にはなっていない。
まずは手はじめに、科学技術者の交流の場づくりを提唱。姫路工業大学の教授、研究者をまきこんだ「播磨ケミカルサロン」を発足させ、ひき続いて機械・金属系技術者が中心になって「播磨テクノサロン」を発足させた。これら両サロンは、参加メンバーを登録させ情報交換会、座談会、懇談会などを開催するほか、自由なサロンとして「憩い、遊び、交歓できる」場を提供し、科学技術者を大切にするムードづくりに取り組み多くの成果をあげている。

8GeV・SR施設と播磨科学公園都市の建設

テクノポリスの中核・播磨科学公園都市の建設工事は順調にすすめられている。昭和58年3月、西播磨テクノポリス開発構想の策定。昭和60年9月、主務大臣の開発計画承認。昭和61年10月、播磨科学公園都市・建設起工式。昭和63年2月ヘリポート設置許可、平成元年6月、大型放射光施設の立地決定。同7月、姫路工業大学理学部学舎建設着手と続き、新都市の輪郭がはっきりしてきた。
平成3年度に入り第一工区造成工事にあわせて一部分譲開始、日本電気、住友電工、松下電器産業、ダイセル化学といった大企業が進出を表明、大型放射光の本体工事も着手。又、姫路工業大学理学部、コンピュータ・カレッジも開校するなど様相を一変した。
ただ、新都市は新宮町、上郡町、三日月町にまたがる丘陵地に建設するもので、豊かな自然環境の中で、21世紀を支える学術研究機能と、すぐれた先端技術産業を中心に居住環境をも整えた理想都市を標傍しているが、母都市姫路の担うべき役割りは実に大きい。
なお、大型放射光施設とは、8 GeV・SRと呼ばれるこの施設はGigaelecton Voltの略で、10億電子ボルト単位であらわす。SRはシンクロトロン放射で、8 GeV・SRとは80億電子ボルト。この電子をだ円形の真空リングの中で、光に近い速度で回し、磁石で円形に曲げると、紫外線やX線などの強い電磁波を出す。この放射は特に波長の短いX線領域の成分が強く、分子や原子などこれまで見えなかった分野の観測や解析ができる。
今後の研究領域としては、半導体の超微細加工、新素材の品質評価、物質中の電子と原子、超LSI,ガン医学など無限の可能性を秘めているという。

姫路の情報発信戦略

当所高度情報化特別委員会は、姫路市がテレトピア・モデル都市指定をうけて、ニュー・メディア導入の検討をはじめた頃、昭和57年郵政省が兵庫県に割当てたFMチャンネルプランに対し、八十数社の競願となって調整がつかず、そのままになっている電波を、姫路から発信することはできないかとの声があがった。
播磨地域は、テレビ・ラジオー波も発信されていない電波空白地域であり、テクノポリス・大学・電波発信はいわば都市装置の三点セットと、誘致に力を入れることになった。
兵庫県は申請会社の調整に苦労し、結果、神戸・姫路両本社制の会社を設立し、平成2年10月FM放送を開局することになり、スタジオはNHK姫路放送局内にも設けられた。
また、ニュー・メディアの導入として、キャプテンによる行政情報、コミュニティ情報、観光・買物情報などを発信するための第三セクター、株式会社姫路メディア・ネットワークを昭和63年10月発足。サービスを開始した。
つづいて、多チャンネル時代に対応したケーブル・テレビ事業化について第一燃料工業、大和産業ら10社により新会社設立。姫路市、姫路商工会議所など39社・団体が増資に応じ、資本金10億8千万円。平成3年5月、本社を姫路大同生命ビル7Fに移し、本格業務を開始した。この事業は、装置産業の要素が強く、初期の設備投資として、幹線ケーブルの架線、放送センター設備、スタジオの完備を終え平成4年4月7日、華々しく本放送をはじめた。愛称は「ウィンク」。
こうして、メディア構築は漸くにして整ったが、軌道にのせるためには、情報の受け手、送り手側の理解や協力にまつ事が多く、一層の支援が要請される。

播磨空港の位置決定

播磨は一県に匹敵する都市集積があるにもかかわらず、空港空白地域である。播磨空港がほしい、という声は昭和30年代からあり、非公式ながら運輸省に意向打診をしていた経緯がある。
貝原県知事は21世紀は「空の時代」、兵庫県には但馬、播磨、神戸に航空ネット・ワークを形成が必要として、播磨空港問題協議会を発足させ、候補地の絞りこみについて討議を重ねてきた。平成元年11月、同協議会は第4回目の会合において、3ケ所の候補地①テクノポリス南東部 ②網干沖 ③広嶺山のうち大方の予想に反し、広嶺山を最適とする意見をとりまとめ、知事に答申した。兵庫県はこれを受け、第6次空港整備5ケ年計画への組み入れを目指して運輸省へ働きかけることとした。当初、最も有力視されていたのは網干沖の海上空港。当所播磨空港推進特別委員会でも、臨海部に空港設置することで、産業の再生をはかり、開発利益も期侍できるとし、新工法を採用、駆体工法によって人工漁礁や、集客施設併用といった、夢のある空港建設を目指すべきといった意見もあり、海上空港を推す団体が多かったのは事実。ところが、その利点は認められるものの、瀬戸内海環境保全のためのカベが厚く、環境庁との調整に手間どり、次の5ケ年計画にのらなければ、遅れに遅れてしまう事から、広嶺山にし、設置可能な条件を詰める方が現実的との事情による。その点、広嶺山は市中心に近く、利便性にすぐれ、中国縦貫自動車道、山陽自動車道路、播但連絡道路など高速道路とのアクセスも容易で、域内全体から利用しやすいとの利点がある。
こうした経緯を経て、「目標」が定まり、官民あげての播磨空港建設促進協議会を結成して気勢をあげ、中央への幾度かの波状陳情を展開した結果、平成3年11月、運輸省は、予定空港として神戸空港、欄外記載ながら、播磨空港についても事実上の「ゴー・サイン」を出した。

21世紀の都市拠点「キャスティー21」

昭和40年代、国鉄山陽本線高架化期成同盟会が結成され、陳情をくり返えすのみで「国鉄高架は市民の願い」はただの念仏であった。膨大な赤字に悩む国鉄は当事者能力を失ない、鉄建協定などの策も有効に機能せず、結局国鉄民営化の大改革を経て、始めて山陽線連続立体高架事業、貨物ヤード移設事業が本格的に動きはじめた。
各界から声が上ってからすでに20年、今後事業が順調に進むとして、有に十数年はかかろうという大事業であり、まさに「平成の築城」「キャッスル・シティー21」と呼ぶにふさわしい。
当所では、毎期にわたって最重要の委員会テーマに採り上げてきたが、とりわけ昭和62年、念願の都市計画決定を受けて事業本格化に呼応し、姫路駅周辺整備特別委員会を設置し、鋭意調査研究にはいった。
姫路駅周辺整備をめぐる課題は、交通の結節拠点としてのあり方、都心形成のあり方などきわめて多様であり、先進の浜松市、広島市などへの視察や、行政との懇談会、勉強会はすでに31回に及んでいる。
委員会では、広くなる駅前広場、バス等公共交通施設の整備、駅前景観美、南北連絡道路の確保、都心型高次情報センター、地下商業施設、駐車場施設、多目的集客施設、オープン・スペースといった夢のある都心形成への諸方策について、施策提言をとりまとめたいとしている。
同時に、駅西地区の都市整備、都市計画街路整備の促進、現商店街との連携といった意見も重要なテーマとして取り上げることになろう。いずれにしても、近代都市姫路への飛躍はこの大事業の成否にかかっている。

〔以上、70周年史より〕



平成初期~令和
(準備中)